常に、新しいものを。
国産初の硬貨計数機にはじまり、常に私たちは現状に満足することなく、
新しい製品・サービスを開発してまいりました。
その背景には、先人たちから受け継いだ熱い想いが根付いています。
2018年3月、グローリーは
創業100周年を迎えました。
「絶えず世の中にないもの、社会の役に立つものをつくり続ける」
という創業時からの想いは、今もこれからも変わりません。
常に、新しいものを。
国産初の硬貨計数機にはじまり、常に私たちは現状に満足することなく、
新しい製品・サービスを開発してまいりました。
その背景には、先人たちから受け継いだ熱い想いが根付いています。
私たちは、あくなきチャレンジ精神と、
通貨処理の枠を超えた先進の技術で、
安心に満ちた未来を拓く。
その使命を胸に、つぎの100年に向け新たな
一歩を踏み出します。
「グローリー」の礎
従業員7人から始まった姫路の零細工場が、100年のときを経て今では、世界100カ国以上に製品・ソリューションを展開するグローバル企業へと成長した。幾度の危機にさらされながらも、今日のグローリーの礎を築いた中興の祖 尾上壽作の生涯をご紹介します。
死と向かい合った青春
1903年11月28日、尾上壽作(以下、壽作)は兵庫県姫路市の資産家であり、国栄機械製作所(現 グローリー株式会社)の創業者でもある、尾上作兵衛の三男として生まれた。なに不自由ない生活だったが、生まれつき体が弱く、一人前に育つかどうか心配されたほどだった。
1923年、20歳の壽作は自宅で徴兵検査を受けた。肺結核が日ごとに悪化し、必死の闘病生活の中での検査だった。看護師の力を借りて、やっとのこと病床から起き上がった青年を見て、軍医は、同情と諦めの表情で短く「丁種」と通告した。それは「死の宣告」を受けたのも同然だった。病気と向き合いながら青春時代を過ごした多くは、自暴自棄に陥りながらも、壽作は、生に執着した。神仏にもすがり、あらゆる療法を試みるうち、京都の医師が説く「静座による精神療法」に出会った。ワラにもすがる思いで指導を受け、実践を始めた。療法は簡単だった。静かに座って、呼吸を整えるだけでいい。不思議なことに、これが効いた。日一日と健康を取り戻す。生への激しい執念もあったのだろうか、奇跡的な回復を遂げたのである。
社会復帰を果たした壽作は、一つの誓いをたてた。
「丁種で、国に報いることが出来なかったが、自らの仕事を通じて、生涯、社会のお役に立とう」と心に決めたのである。
国栄機械製作所ヘ入所
当時、父親である作兵衛は、姫路電球(現 ウシオ電機株式会社)など、多くの会社を興して、播磨のすぐれた経営者の1人となっていた。壽作は作兵衛が姫路電球の機械修理工場として設立した国栄機械製作所(以下、国栄機械)に入所し、実社会へのスタートを切った。
一時、系列の金融会社「姫路倉庫」で経理の勉強をしたが、モノを作っていくことのおもしろさ、意義深さ――金融会社の対極に、いつも自分がいることに気付いた。早々に姫路倉庫を辞めることになった。
再び、壽作は国栄機械に戻ったが、やがて日本の不況はどん底に落ちていく。下請け、関連会社は次々と工場閉鎖を迫られる。失業者が町にあふれるなか、国栄機械も苦境に陥った。バケツの製造などをしながら食いつなぎ、急場をしのいだ。
不況の嵐を必死で耐えているなか、朗報が舞い込んだ。三菱製紙株式会社 高砂工場(以下、三菱製紙)の機械修理を請け負うことになったのだ。稲こき機、マッチ製造機、オートバイの組み立て、さらには大日本セルロイド株式会社(現 株式会社ダイセル)網干工場、株式会社播磨造船(現 株式会社IHI 相生工場)などの機械修理で、国栄機械の優れた技術が次第に評価されていった。そうした積み重ねを経て、財閥企業からの受注に成功したのだった。
修理請け負いは、やがて、もっと大きな成果をもたらす。三菱製紙 高砂工場の技術責任者が、国栄機械の技術にほれ込み、最新製紙機械を設置した新工場の生産設備すべてを壽作に任す、ということになった。日本の代表的工場の全設備を、一介の町工場が建設するのである。壽作にとっては、夢のような話であった。20人ほどだった従業員を、一気に70人に増やし、三菱製紙の期待に応えた。
相次ぐ試練、支配人の「反乱」
こうして不況は脱出したものの、またしても試練が襲う。国栄機械を壽作と二人三脚で切り回してきた支配人が、突然、辞表を出したのである。そして、こともあろうに同じような機械の修理、製作会社を設立し、国栄機械時代に培った得意先を回り、仕事の横取りを始めた。「国栄機械の経営者は、機械のことは全く素人です。うちに仕事を回してください」と、喧伝して回った。
壽作も巻き返しを図る。早朝から、夜遅くまで自転車で得意先を回る。「一生懸命やりますから、これまで通りよろしくお願いします」。得意先を新たに獲得するより、身内の反乱が引き起こした顧客離れを食い止めるほうが、よほど難しい。
壽作は、必死だった。夜は、通信教育で、機械の勉強をした。合間に、現場の従業員と膝を交じえて話し合う。
そんな努力が、少しずつ状況を好転させた。辞めた支配人が工員の引き抜きを始めたが、だれ1人応じなかった。逆に、「若大将、負けたらあきまへん」と壽作を励ましてくれた。三菱製紙も従来通り、壽作に仕事を回してくれた。支配人の反乱は、表面的にはさざ波のように終息した。しかし、壽作は考えた。
後で、支配人の不満を耳にしたのだったが、やはり、同族経営への言い分があったのだろうと。その思いは、後の壽作の経営方針に大きな影響を及ぼすことになる。
自社製品開発への夢
1936年、国栄機械は個人経営を脱し、合名会社として法人化された。
これを機に、壽作は念願の自社製品開発に本格的に力を入れ始める。1年後、ちょうど日鉄(現 新日鐵住金株式会社)広畑製鉄所の建設が決まった年、国栄機械は、農業用石油発動機を製作した。壽作の名にちなんで「福壽号」と命名した。この発動機は、売れ行きこそ、そう華々しくはなかったが、国栄機械初の特許を得たもので、技術陣は自信を深めた。いわば、自社製品開発へののろしでもあった。
技術陣の充実と共に、軍需品の発注も増えてきた。太平洋戦争が勃発した翌年、国栄機械は艦政本部の監理工場に指定される。石油不足の折から、輸送船団用に、石炭をたいて航行する船舶を建造することになり、艦政本部は国栄機械などにレシプロエンジンの製作を命じた。1943年、休日返上の勤務体制で取り組み第一号を完成させた。昼夜兼行で作っては納める日が続いたが、戦局は悪化の一途をたどり、ついに、姫路も空襲で焼き尽くされる。南畝町の本社工場など、ほとんどが焼失、姫路市下手野に建設していた疎開工場だけが罹災を免れた。
戦後復興と悪夢の日々
虚脱状態の中で復興が始まった。幸い、国栄機械の従業員で、空襲の犠牲となった者はいなかった。総出の復興作業は、瓦礫と化した工場の整備から始まった。技術者たちは、灰の中に埋まっている部品や、工具を次々と掘り出した。それらを使って、アイスキャンデー製造機やたばこのパイプなどを作った。しかし売れ行きは伸びない。
「なりふり構っている時ではない。工場再建にこぎつけるまでは、考えられることは何でもやろう。」
壽作は、そうハッパをかけた。佃煮工場、肥料販売、そして、進駐軍相手のクリーニング業・・・・・・。再び機械製作へこぎつけるため、歯を食いしばった苦闘が続いた。
そんな思いが通じたかのように、終戦から3年、第一次の造船ブームが起こった。戦時中のレシプロエンジンの実績も見込まれ、受注も増えた。将来的な受注も見越して、復興金融公庫の融資で大規模な設備投資も実施した。「これで国栄機械は復興出来る」と、従業員はもちろん、壽作もそう信じて疑わなかった。
ところが、事態は急変する。1949年のドッジ・ラインである。インフレ収束のための財政引き締めが行われた。補助金、復興資金はストップする。融資で設備投資をし、これから本格的にレシプロエンジンの製作にかかろうとする時だった。エンジンの発注は打ち切られ、融資も止まる。はしごをはずされた国栄機械は破綻寸前となった。
追い討ちをかけるように、姉妹会社の日本化学高圧が倒産した。信用不安は一気に広がり、国栄機械もつぶれるとのうわさが飛び交った。壽作は、南畝町の土地を売り、借入金の返済に当てたりしたが、展望は開けぬままだった。
眠れぬ夜が続き、悪夢の日々が続いた。そんな崖っぷちで踏ん張る姿を見た2人の男が、救済の手をさしのベた。龍田紡績株式会社 社長 龍田敬太郎氏と、日本フエルト株式会社 社長 清水侍郎氏である。銀行を説き、国栄機械への融資を再開するよう働きかけてくれたのだった。友人の支援は、何物にも代え難いほどありがたかった。どん底からはい上がる勇気を与えてくれた。
硬貨計数機との出会い
奈落を見たものの、国栄機械の技術陣はまだ確かである――と壽作は確信していた。銀行のテコ入れで危機を回避するのと前後して壽作は、改めて全社あげての営業活動を始めた。
そんな中、営業担当の仙次が、大阪造幣局で耳寄りな情報を得た。
「日本も近々、硬貨を発行する。外国には、硬貨計数機はあるが、日本にはないんだ」
まだ、海のものとも山のものとも分からなかったが、壽作は「いける」と踏んだ。試作品のテストは上々で、造幣局でも好評だった。
「まだ商品にはならないが、金融機関は、必ず使うようになるだろう」――壽作は、そう見通して、自社製品開発の夢をこの硬貨計数機にかけた。
果たして、壽作の目は鋭かった。1952年、10円硬貨が、続いて50円、100円硬貨と、5年のうちに次々発行され、大量に出回った。その間、造幣局に納めていた計数機は、次々と改良が加えられ、格段に性能が向上していた。その技術にまず株式会社住友銀行(現 株式会社三井住友銀行)が目を付けた。
そのころ、銀行窓口というと、細かい硬貨など、めんどうくさがって扱わない、と考えられていた。実際、ほとんどが紙幣だったが、住友銀行(以下、住友)は、硬貨の流通に注目していた。一部の金融機関では、西ドイツ製の硬貨計算機を入れているところがあったが、本格導入の兆しは、まだなかった。それに、1台60万円という高額商品だったため、全支店への展開は夢物語とされていた。
ところが、国栄機械の売り出した計算機は1台わずか12万5千円。住友は、ためらいもなく、100台の注文を出した。「国栄機械」の名が、全国の金融機関に一気に広まったのは、この時である。住友は支店ごとに計算機を置き、これをセールスポイントにした。
「硬貨持ち込み歓迎」
と、触れたものだから、これまで窓口で硬貨の預け入れを遠慮していた商店主らが、どっと住友へ殺到した。住友の成功を見て、株式会社三和銀行(現 三菱東京UFJ銀行)も導入した。1954年のことである。無名の町工場は、全国企業へと脱皮した。
自動販売機への挑戦
硬貨計算機で自信をつけた技術陣は、さらに新しい目標に挑戦する。そのころ、ヨーロッパやアメリカでは自動販売機が普及しつつあった。壽作は、そんな海外の新製品カタログを知人から見せてもらい、日本での自販機ブームを予見して、技術陣に「宿題」を与えていた。
そんなさなか、ハリス株式会社(現 クラシエフーズ株式会社)からチューインガムの自動販売機を開発してほしい、との要請が舞い込んだ。技術陣は、たばこ自販機に取り組んでいたが、急遽、チューインガムに切り替え、1957年暮れ、試作機が完成。改良を加え翌年、大阪・高島屋に据え付けられた。
反響は予想外に大きかった。特に、子供たちの人気は抜群だった。ハリスは全国のデパートに自販機を設置し、驚異的に売り上げを伸ばした。日本における自販機ブームの先駆けであった。
その後、たばこ、ガス券、タオルセット、へアードライヤー、衛生用品・・・・・・人件費が上がるたびに、自販機の需要は増えた。粗悪品を売るメーカーも出たが、壽作は、口をすっぱくしてこう言った。
「よりよき製品を、より早く、より安く製作する――あたり前のことだが、問題はことの順序である。主眼は、よりよい製品だ。次により早く、最後がより安くこれを間違えないようにするのが肝要だ」
自社製品開発に賭ける、壽作の哲学である。その考えを徹底して貫き、硬貨計算機を皮切りに、硬貨包装機、紙幣計算機、紙幣整理機など次々に開発。そのほとんどが国産第一号であった。
「グローリー」の名を姫路から世界へ
1971年、国栄機械は社名を「グローリー工業」と改めた。輸出事業を本格化させるのと、同族経営を脱皮して国際化時代にふさわしい企業体質を築き上げる狙いがあった。
「企業の公共性を信じ、企業に対する自己執着から離れることが、会社の大成に結びつくと思うんです」
半世紀かけて企業を育て上げてきた末に、行き着いた起業家の心境だった。壽作はその年、社長を退いた。
壽作の精神
企業理念「私たちは『求める心とみんなの力』を結集し、セキュア(安心・確実)な社会の発展に貢献します」は壽作の精神を踏襲したもので、この変わらぬ想いは、今も脈々と社員に引き継がれている。
「自社製品をつくる」という想いを胸に
全ての始まりは「求める心」から
無名メーカーだった国栄機械製作所がなぜ硬貨計数機の開発に挑むことになったのか。
そして、それを実現する原動力となったものは何か。グローバル企業に発展したグローリーの原点を探る。
自社製品を求めものづくりに励んだ
下請け時代、硬貨計数機の試作に挑む
グローリー株式会社の前身である国栄機械製作所(以下、国栄機械)の創業は1918年3月。この頃、日本の一般家庭に電灯が普及し始め、国栄機械は、生産拡大が進む電球の製造装置を修理する工場として従業員わずか7人で事業をスタートした。その後経営を任された実質創業者である尾上壽作(以下、壽作)は、常日頃から、企業が生き残るためには「自社製品をつくること」という強い思いを持ち、日夜情熱を燃やし続けた。ディーゼルエンジン、工作機械、アイスキャンデーの製造機など数々の製品の開発を試みたが、販売ルートもなく無名のメーカーであることから、ことごとく失敗に終わった。戦後は、クリーニング屋や佃煮屋を営むなど、副業で食いつないだ時期もあった。
しかし、壽作を先頭に全従業員が考えられるところを手分けして片っ端から回り、仕事の注文をとりに奔走していた、1949年12月。壽作の弟 尾上仙次が学生時代の友人を頼って訪ねた大阪造幣局(以下、造幣局)で耳よりな話を聞き込んできた。「近いうちに日本で新しい硬貨が発行される。硬貨を数える機械が欲しいが外国の機械は高いのだ。君のところで試作してくれないか」。日本ではまだ硬貨が出回っていない時代、硬貨計数機をつくるなんて雲をつかむような話だった。
しかし、壽作はこの報告を受け、これは将来性のある話だと確信し、すぐに銀行出身者の意見を聞き、見積書を提出。仙次が毎日のように造幣局まで出かけて行き、打ち合わせを行った。この熱心さが功を奏し、造幣局より硬貨計数機の正式発注が行われた。
わずか4人の技術者で、
試行錯誤した日々
翌日から設計図の作成を開始した。4人の技術者が未知の機械である硬貨計数機の開発に取り組み、図面が完成して製作が始まった。機械の上部に取り付けてある硬貨の受け皿部分は、銅板をたたき出してつくってあったが、当社にはそのような技術がなかった。鋳物でつくったり、組み立てにくい箇所を直したりと苦心に苦心を重ねた。
確信とともに納品した1号機、
国栄機械の名を馳せる契機に
1950年2月、硬貨計数機の第1号機が完成。社内で入念にチェックし、これなら絶対に間違いないとの確信を持って造幣局へ持ち込んだ。その後、造幣局で硬貨を入れて試運転をした結果、好成績を得て無事に納品することができた。これが国産初の硬貨計数機となり、今の当社の通貨処理機メーカーとしての地位を確立する大きな一歩となった。
求める心とみんなの力
私はいつも言うのですが、
人間はどんなに能力があっても一人の力では大したことはできません。
みんなの力、大勢の力が結束してこそ、その仕事が成功へ導かれるのです。
世間には個人プレーの好きな人がいて、
よく『これは俺がやったのだ』と功を誇っていますが、
一人の人間が功を誇っていてもやがて駄目になってしまいます。
みんなに求める心があり、
みんなの力が結集されたから、硬貨計数機は完成したのです。
これからのグローリーを担う3人の
若手社員が、
自身の目線でグローリーの「今」、
そして「未来」を語り合う。
100年で培った技術・ノウハウ・
スピリットを生かし、
新しいものを創造するグローリー。
新たな100年へ、想像の翼を広げて。
「チームワーク」が大切
部署で情報共有を進める
システム開発統括部 プラットフォーム開発部
栗岡克仁
武器は語学と行動力
「もの言う社員」でありたい
Glory Global Solutions Ltd. 出向
蘇 知韵
「こんな技術が欲しかった」と言われたい
現場の声に耳を傾ける
研究開発センター
古川勇輔
※所属、業務内容は取材時点の内容となります。
なぜ、グローリーは100年カンパニーとなれたのか。
受け継がれているDNA
課題を克服すれば、それは強みになる。
そのために私たちがいる
100年後も、グローリーは「セキュア(安全・安心)」を
キーワードに、世界に貢献する企業で在り続ける
これからもグローリーは新たな製品・ソリューションの開発を通して、
安全・安心な社会の実現に貢献していきます。